び~ふぁいる

主に未邦訳の海外ミステリーについて語ります

第21回 クリス・オフット

 暑い日々もようやく出口が見えてきたのかなと感じられる今日この頃、みなさんはいかがお過ごしでしょうか。さて今回は、アメリカはケンタッキー発の珠玉のハードボイルドをお送りしたいと思います。

 これはですね、もう往年のハードボイルドファンならば、きたァ~!!と歓喜するのではないでしょうか。書評家も大絶賛のアパラチアン・ノワール、さっそくご紹介しましょう。

 

【あらすじ】
「ここは死の山だ……」住民がそうつぶやく、全米で唯一平均寿命が縮んでいるケンタッキー州東部の町、ロックソルト。上級准尉ミック・ハーディンは臨月を迎える妻のために赴任先のドイツからこの町に戻ってきたが、お腹の子供の父親は自分ではないと告げられてショックを受ける。そんな折り、山で女性の死体が発見された。新人の保安官であるミックの妹のリンダは兄に協力を頼む。ミックが調査を始めると、閉鎖的なコミュニティに住む偏狭な人々の考えによってさらに殺人や自殺が連鎖的に起こっていく。   ミックはこの一連の事件と、おのれの結婚生活にどう落とし前をつけるのか。男の優しさと矜持にあふれたアパラチアン・ノワール、ここに誕生!

アパラチアンについて

 本書は“アパラチアン・ノワール”と称されていますが、アパラチアンとは基本的に、アメリカの東部を南北につらぬくアパラチア山脈の南側の地域の山中に住み着いた「スコッチ・アイリッシュ」の人々を指します。20世紀より前、アパラチアの人々は地理的に他地域から孤立していました。そういう理由もあって閉鎖的なメンタリティが根付いてしまったようです。19世紀後半こそ石炭が掘り起こされてアイルランド中央ヨーロッパからの新たな移民の波を迎え、工業化によって都市化が進んだものの、その後は長い間経済的に発展していない状態が続いています。
 また、作中でも触れられているとおり、この地域は全米で唯一平均寿命が年々縮まっています。がん、心臓病、糖尿病の発生率や肥満率は、全米でも最悪レベルなのに加え、今も閉鎖されずに残る数少ない炭鉱からトラックが出てきては、土ぼこりを立てて幹線道路を走っているので石炭の粉じんを吸いこんでじん肺を患っている人々も少なくありません。さらに、麻薬常用者の増加も深刻な影を落としています。

本書のすばらしさ

 何がすばらしいって、まずはオフットさんの卓越した文章力でしょう。無駄の一切ない、研ぎ澄まされた、それでいて歌うように流れる文体。どの文も短くてシャープですがニュアンスがたっぷりと含まれています。そしてリアルな会話。ヘミングウェイの再来(byニューヨーク・タイムズ)と言われるのもうなずけます。それもそのはず、オフットさんは詩人でもあり、デビュー作の詩集『ケンタッキー・ストレート』はアメリカ芸術文学アカデミーのフィクション賞を受賞しておられます。ああ、できることならこの味わいを理解する熟練した翻訳者さんに訳していただきたいなあ……。下手な人が手を出したらこの世界観がガタガタに崩れそう。

悩めるヒーロー、ミック・ハーディン

 ミックはイラクに出征した経験を持つ軍人ですが、現在はアメリカ陸軍犯罪捜査司令部(CID)に所属しています。深くは触れられていませんが、イラクでは仲間の三人の兵士が射殺されたのを目の当たりにしてその後PTSDに悩まされたといったことも匂わされています。彼と妹のリンダはアル中の父と精神を病んだ母のもとで暮らし、その後祖父に引き取られたという苛酷な幼少時代を送ってきましたが、その頃の描写もユーモアをまじえて語られ、決して陰鬱ではありません。祖父から学んだ山との付き合いかたは、今でもミックの心の糧となっています。
 人を信じる心を失わない彼の態度は誰に対しても変わりません。自分を襲った暴漢をのしてナイフを奪ったあと、話がついて解放してやるときにナイフを返してくれと言われるのですが、当然逆襲を懸念して躊躇するわけです。でもそのナイフは叔父の形見なんだと暴漢が言うと、ミックはあっさりナイフを返してやります。ミック・ハーディンとはそういう男なのです。しかし、ただ優しいだけの甘ちゃんと思うなかれ。なかなかの策士でもある切れ者です。ですがそんな彼も、自分以外の男の子供を宿した妻のペギーに心をずたずたにされてしまいます。それでも彼女を許したい、という気持ちと許せないという気持ちの間で葛藤し、やがて事件解決と同時に彼女が出産をし、ミックのなかで一つの結論が導きだされていくのです。

似た系統は?

 自然描写のすばらしさと郷土愛という点から言えば、ジェイムズ・リー・バークさんが挙げられるのではないでしょうか。彼の作品はルイジアナ州を舞台にバイユーの自然が圧倒的筆致で描かれ、さらにケイジャンというフランス人を祖先に持つ人々の文化なども読みどころとなっていますが、本書でもアパラチアの雄大な自然は勿論、白人、黒人、先住民を祖先に持つメランジョンと呼ばれる住民も登場してミックと絡むシーンがあります。(余談ですが、ジェイムズ・リー・バークさんの原書で描かれているルイジアナは本当にすばらしいのです。彼の作品が犯罪小説を超えた文学作品だと評されているのも納得です。それゆえに、翻訳を読んだときのがっかり感たるや……)


 ですがなんといってもレイモンド・チャンドラーロス・マクドナルドジェイムズ・クラムリーと続いてきたハードボイルドの系譜を継ぐ作品の登場に往年のミステリーファンは歓喜すること請け合いです。

 ちなみに、本ブログの2022年2月のエントリーで紹介しているS.A.コスビーさん(そこで紹介したコスビーさんの作品は来年の始めあたりにハーパーBooksさんから出るようです!)も本書を絶賛していますので、コメントを載せておきますね。

『格調高い筆致と、揺るぎない高潔の融合が生みだす力強さ。本書は哀歌の響きを持つ叙事詩であり、そこには人間の生と死という奥深いテーマがある。最後のページを読みおえたあと、その余韻はいつまでも心に残ることだろう――S.A.コスビー』

 なお、原書による本書の続編『Shifty’s Boys』は2022年6月に刊行され、こちらも高い評価を得ています。

Shifty's Boys

Shifty's Boys

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