び~ふぁいる

主に未邦訳の海外ミステリーについて語ります

ちょっと放置していました。すみません。

幸いにしてまたお仕事をいただけることになりました。しかしこれが……長い! どうなるんだろ。前後編かなあ。ていうか、訳了が想像できない。調べ物が多すぎる。起きている時間は一分一秒でも仕事にあてなくてはならない、ならないのに~

全然集中しきれてない。まずい。来年早々には大物作家さんのリーディングもくる。多分。去年からすでに私がやりますと宣言してしまっていた。やっぱりできませんとは言えないし、何より私自身やりたいし……。(訳者さんは決まっています)

そんなわけで申しわけありません。何冊かは読み終わっているのですが……。

来年4月とか5月までかかりそう……。

第80回 イーライ・クレイナーその3

 一昨年のデビュー作『Don't Know Tough』を読んで以来、わたしの筆頭推し作家となったイーライ・クレイナーさん。前作『Ozark Dogs』がコケただけに本作も実は不安でした。この三作目ははたしてどうなのでしょうか。

【あらすじ】
 アーカンソー州スプリングデール。メキシコからの不法移民のガブリエラとエドウィンは、地元の鶏肉加工工場で働きながら同棲して七年になる。工場長のルークからは酷使されていたが、ふたりはいつか貧困から抜け出すことを夢見てきつい労働に耐えていた。しかし、ある日遅刻したエドウィンは見せしめのために解雇されてしまう。復讐心に駆られたエドウィンはルークの息子を誘拐する。その衝動的な行動は、エドウィンとガブリエラの夢の終わりの始まりだった……。

あまりに意外な着地点

 イーライ・クレイナーさんは、何度も言っているとおりわたしが今もっとも推している作家です。これまでに『Don’t Know Tough』と『Ozark Dogs』の二作を上梓していて(本ブログ第42回と57回で紹介しています)両作ともヘミングウェイの再来ともいわれる骨太なタッチで南部の男の生き様を描いています。勿論女性も重要なファクターを担っていますが、基本的に女性キャラは陰になり日向になり男たちを支える存在として描かれていました。本作も前半はそのカラーで進みます。息子を誘拐され、復讐のためにライフルを手に取るルーク。アーカンソーの男は小さいときから父親に銃の使い方と狩りを仕込まれる。それは儀式であり、男らしさの象徴だ、とあります。まさに南部男のスピリット炸裂です。ただ、さすがのクレイナーさん、こういう男を通り一遍に描くのではなく、その裏に潜むコンプレックスを深くえぐっています。このあたり、読ませてくれますね~。そしてこのままこの路線で続くのかと思いきや……読みおわって唖然としました。わたしはいったい何を読まされたのでしょうか。

まさかのフェミニズム

 本書の宣伝文にフェミニズムシスターフッドといった言葉は一切出てきません。しかしこれはまぎれもなくフェミニズムシスターフッドの話でした。勿論表向きは移民問題や雇用問題にメスを入れた社会派ノワールです。でも蓋をあけてみれば、出るわ出るわ。産後うつ、ワンオペ子育て、流産、夫の不倫、専業主婦という名の夫による飼い殺し――と女性が抱える問題がてんこ盛りです。そしてこの誘拐事件をきっかけに生まれる女性同士の連帯。ふたりの絆がもたらすラストのカタルシス。いやはや、イーライ・クレイナーがフェミニズムを描くとは誰が予想したでしょうか。一作目の『Don’t Know Tough/邦題:傷を抱えて闇を走れ』が日本で刊行されたとき、かの有名なアマゾンレビュアーさんなどは”ハメット以来の女性嫌いの系譜を踏襲している”と言いきっていましたが、そのお方に教えてやりたいですね。イーライ・クレイナーはフェミニズムを書ける作家だぞ、と。

前二作にはなかった読後感

『傷を抱えて闇を走れ』は、商業的には不発に終わったように見受けられました。残念ながらクレイナーさんの素晴らしさは日本の読者には伝わらなかったようです。否定的なレビューを見るに、どうやらわかりやすく読者を楽しませるエンタメ性やカタルシスの欠如が一因のようです。確かに、アメリカ本国でも下位レビューからは、登場人物全員が救われないストーリーのむなしさを指摘するコメントも散見されました。その点、例えば同じく南部ノワールの代表格として挙げられるSA・コスビーさんは南部独特の社会通念や黒人問題を取りいれつつも、いい意味であざといというか、一般大衆が好むツボを押さえてカタルシスを提供するという、商業作家としての優れた手腕を発揮しています。クレイナーさんも今回はそのあたりを意識したのでしょうか。

 彼なりに自分の書きたいものとエンタメ性の落としどころを探ったように見受けられました。その答えを“フェミニズム”に着地させたのは大きな驚きでしたが。ラストに訪れる、女性ふたりの絆がもたらすカタルシスはなんともいえない余韻を醸しだし、本書を忘れがたいものにしています。これは前二作にはなかった読後感でした。クレイナーさんの、また新たな引き出しを見せてもらいました。これからも彼をウォッチしていきます。いつか彼がデビュー作を越える作品を書くと信じて!

 

 

第79回 フィリップ・フラカッシ

 今回は、今まで読んだことのないホラーのジャンルに挑戦してみました。ひょっとしたら食わず嫌いなだけで、これを機にこの世界にハマるかも、と期待しながら。

【あらすじ】
 1905年、ペンシルベニア。人里離れた谷間にある聖ヴィンセント孤児院。七歳のときに両親を亡くしてここに引きとられたピーターは現在十六歳になる。気がつけば最年長の孤児になっていた。

 ある夜、ポールという殺人犯を護送中の保安官が聖ヴィンセント孤児院に立ち寄った。ポールの容態が悪化したので、医学の心得がある孤児院のプール神父に診てほしいと言うのだ。ポールの顔には悪魔のような邪悪な表情が浮かんでいた。胸にはショットガンで撃たれた穴があいている。もう長くはもちそうにない。聞くと、ポールは保安官の弟で、三歳の女児を裸にして岩に縛りつけ、切り刻んでその生き血を飲んでいるところを兄の保安官に見つかって撃たれたのだという。弟に取り憑いた悪魔を祓い、命を救ってくれとプール神父に懇願する保安官だったが、ポールは真っ黒い歯を剥きだしてニヤリと笑うと、そばにいた保安官補に襲いかかって殺してしまう。思わず兄は発砲し、ポールは死亡。院の神父たちと保安官はポールと保安官補の死体を埋めた。

 その日以来、院の子供たちの中に、人が変わったような態度を示す者が増えはじめる。ピーターにも、院の中でうごめく邪悪な影の存在が感じられた。そんな折に、年少の孤児が裸で礼拝堂の十字架に吊されて死んでいるのが発見される。自殺と決めつけて祈りの言葉すら発しないプール神父に疑義を質した年長の孤児のバーソロミューは地下の穴に閉じこめられるという懲罰を受ける。それを機に院内は、プール神父に刃向かうバーソロミュー派と、穏やかなピーター派に分かれて対立するようになる。

 ついにバーソロミュー派の子供たちはプール神父に襲いかかり、孤児院は大パニックになる。子供たちは悪魔に取り憑かれたのか、それともその暴力的な姿が彼らの本質なのか。混乱の中、ピーターの父親的存在でもあったアンドリュー神父が攻撃を受けて命を落とす。だがアンドリュー神父は死の間際に聖水が入ったボトルをピーターに渡し、神父の資格を与えていた。ピーターは神父として十字架を高く掲げながら祈りの言葉を発し、バーソロミューに取り憑いた悪魔を祓おうとするものの、院の責任者でもあるプール神父はバーソロミュー派に囚われて両目を潰されてしまう。ピーター派に勝ち目はあるのか?

絶賛レビューの嵐!

 本書はアマゾンのレビュー数1118個、平均4.4。4と5の評価を合わせると全体の87%を占めるという、非常に高い評価を受けています。このジャンルの巨匠スティーブン・キングさんも一言コメントを寄せています。ただ一言、”Old-school horror”と。まさにそのとおり。本書は「古典ホラー」です。それ以上でも以下でもありません。この一言が、もうすべてを物語っているかと。つまり可もなく不可もなく、さらっとした薄味のお話。いまどきのホラーらしい尖った刺激も特にないので、子供から大人まで幅広く読むことができるでしょう。もっとも、薄味というのは私個人の印象であって、多くのレビュアーさんは”読みはじめたらやめられない” ”夢中になってのめりこんでしまう” ”これからもフラカッシさんの本を追います”といった熱狂的コメントを述べています。

安心安全

 ストーリーにはオリジナリティーや驚きの展開といったものはありません。それも安心材料として読者の心をつかんでいるのかもしれませんね。紹介文によると、『エクソシスト』と『蠅の王』を合体させたような作品、とありました。『蠅の王』をチェックしてみると、少年たちが無人島でふたつの派閥に分かれ、一方は暴力的になっていき、もう一方はルールを守って秩序正しく生きようとしていたが、対立の果てにクライマックスで大火事になるというお話。あら、本書とほぼ同じではありませんか。(本書でも最後火事が起きます)『エクソシスト』についてはみなさまご存じのとおり、言わずもがなでしょう。

 紹介文ではさらに、少年たちの成長物語と銘打ってあります。少年達はこの恐ろしい出来事を通じてどのように成長したのでしょうか。そのあたりは……特に描かれていませんでした。結果的に何人かの少年が生き残ったというだけで。個人的には、バトル中に友をかばって大怪我をしたりとか、互いを守り合って危機を切り抜け、そこに仲間との信頼や結束が生まれ、ひとまわりもふたまわりも大きくなった少年たちの姿が描かれるのかと期待していたのですが、そういった、関係性に踏みこむ描写はありませんでした。暑苦しさはないのです。あくまさらっとさらっと進行します。

 ただガツンと濃い味が好きな私にはほかにもやや気になる点がありました。

◆能動的に動かない主人公(肝心なときに気絶したりする。武器を持って戦って血を流すといった身体を張った仕事は他のキャラが担当)

◆ホラー物の見せ場であるはずの血生臭いシーンを目撃するのはなぜかいつも主人公以外のキャラ。主人公は一人称なのに、その一人称視点での恐怖のシーンが語られないので、読者が主人公の目を通して凄惨なシーンを目撃するといった楽しみ方ができない。なんのための一人称なのか。

◆悪魔がふわっとしている。対立構造が明確になっていない。このことが起こるまえからバーソロミューは反抗的な子だった、とかピーターをいけ好かないやつだと思っていた、というような下地もないので急な対立に唐突感が残る。そもそも、意地悪で高圧的なプール神父に刃向かうバーソロミューと彼につく子供たちって、本来主人公になるはずの側なのでは? 読んでいてもこっちのほうに感情移入したくなてしまいます。ところで結局悪魔は何をしたかったん?

◆ラストは主人公が、慕ってくれた女子の前まで来てから殉教する。(中二病的ファンは拍手喝采みたいですが)
おっと、すみません、これぐらいにしておきます。

印象に残ったところ

 全体的にさらりとしていますが、一カ所だけ強烈に印象に残ったところがあります。悪魔に乗っ取られたバーソロミューがプール神父に刃向かっていくところで、神父を辱めるために彼の幼少時の辛い体験をみんなの前でばらします。プール神父の家は貧しく、父親は死亡。母親は生活費を稼ぐために売春婦となりました。毎日寝室に客を連れこむ母親。その部屋から聞こえてくる喘ぎ声に神経がかき乱され、ついにプール神父は母の寝室をこっそりと覗いてしまいます。そのショッキングな光景に呆然としながら自室に戻ると、神に必死で祈りました。見たくないものを見なくてもすむようにわたしの目を奪ってください、と。この話を笑いながらするバーソロミュー。”おまえの母ちゃん売春婦〟と蔑み、嘲笑する仲間の子供たち。屈辱にまみれるプール神父。このシーンだけは妙に生々しく描かれていて、ある意味ホモソーシャルにも通じるような残酷なイジメを見ているようで、血なまぐさいホラー・シーンよりも不快感を覚えずにはいられませんでした。ホラーの描写はさほど恐くないのですが(そもそもホラー・シーンが少ない)こういうところにねちっこさが垣間見えるのもなんだかな……。

 末端読者である私が色々言ってしまいましたが、フラカッシさんには強力な固定ファンがついていらっしゃいますので痛くも痒くもないでしょう。次作もきっと大絶賛で迎えられることと思います!

さらに猫のこと

 またまた猫のことで申しわけありません。レビューのほうは、今読んでいる本が二、三日で読み終わりそうなので、今週末ぐらいにはあげられると思います。

 愛猫キースが亡くなって五週間が経ちました。もう乗り越えられたかな、と思える日もあれば、その直後にまた耐えられないほどの悲しみに襲われたりと、精神が安定しない日々が続いています。そんな中でも、キースとの日々は確実に過去へと追いやられていくのがわかります。

 このブログの第15回と16回の間の雑談でも書きましたが、2022年6月にはキースの前に飼っていた猫チィが二十歳で亡くなりました。あの時も悲しかったけれど、老衰で先がないとわかっていたこともあり、最後の一週間はふたりで濃密に過ごし、しっかりと死に向き合うことができました。

 ペットを飼っている人からはよく、死んだ後も気配があるとか、足音が聞こえたり、夜布団に入ってきたという話を聞きます。でもわたしにはそんなことは起こらないだろうと思っていました。チイと一緒に住んでいたマンションは、もう悲しくて悲しくて一刻も長くいたくなかったのでその後すぐに引き払ったし、何よりもチイが会いたい人はわたしではなく元の飼い主さんだろうとわかっていたからです。わたしは十六歳だった保護猫のチイを引き取って四年間暮らしただけでした。元の飼い主さんは認知症になり、チイのことはすっかり忘れてしまったそうですが、チイと接していると、彼女がいかに前の飼い主さんが好きだったか、わたしを通して前の飼い主さんを見ているがわかりました。頭が良くて、とってもとってもおしゃべりな子でした。

 そのチイが、マンションを引き払って実家に戻っていたわたしのところへ、亡くなって一カ月ちょっとたった頃にやってきたのです。生きていたときにいつもしていたように、寝ているわたしのお腹の上に乗ってしばらくベスポジを探しながらぐるぐるし、やがて寝そべりました。いなくならないように、わたしはずっと目を閉じていました。開けたらこの感触がすべて消えてしまうような気がしたから……。やがてわたしは眠りに落ちました。チイは末期のほうではゴハンも食べなくなってかなり痩せていたし、もっと軽かったと記憶していたのですが、あの時はやけに重みがあったのを今でも覚えています。まるで鈍感なわたしに気づかせるように神様に体重を重くしてもらったかのように。きっとあのあと、本当に旅立ったんだろうなと思います。

 そんなこともあったので、キースも来てくれるといいな、と思う反面、天に行かずにずっとここにいてくれてもいいんだよ、とも思っていました。それが、おとといの夜、寝ている時でした。頰に猫の湿った鼻先が触れたのに気がつきました。そのあと脇に寝そべるのが毛布を通して感じられました。来てくれたんだ! どうか少しでも長くいてほしい、そう思いながら目をつむっているうちに眠りに落ちました。来てくれたのは嬉しかったけれど、これで本当にさようならなのかなと思うとやはりさみしい。今も悲しくて、まだ写真を見ることもできずにいます。キースのような猫とはもう二度と出会うことはないでしょう。それぐらい、特別な猫でした。可愛くて、飛び抜けて頭が良くて、ペットではなく、対等のパートナーでした。いつか笑って写真を整理できる日が来るのかな……。

 

第78回 エース・アトキンス

 今回は、日本でも根強いファンを持つスペンサー・シリーズの作者ロバート・B・パーカーさんの没後、シリーズの後継者として続編を書いているエース・アトキンスさんご自身の最新作をお送りします。

【あらすじ】
 2010年、エルヴィス・プレスリーゆかりの地、テネシー州メンフィス。もうすぐ四十歳を迎えるアディソン・マッケラーはふたりの子持ちの主婦。建設会社を経営する夫ディーンのもとで、何ひとつ不自由のない暮らしをしていたが、ある日夫がロンドンに出張して以来帰って来なくなる。不安になって夫の会社に行くと、そこに会社は存在していなかった。いったいどういうことなのか。混乱したアディソンは父親に相談し、ポーター・ヘイズという父の旧友でもある私立探偵を紹介してもらう。

 やがて、ヘイズの調査から驚きの事実がわかる。ディーン・マッケラーは死んでいて、夫はそのIDを盗んで使っていたというのだ。仕事も建設業ではなく、武器売買や傭兵の派遣といった、民間軍事会社の請負業的なことをしているらしい。いままでの結婚生活はすべて嘘だったのか。夫が信じられなくなりかけたとき、彼は突然帰ってきた。ロンドンで強盗に遭い、パスポートを取られたのでしばらく帰国できなかったのだという。しかし不信感を拭えずにいたアディソンは、ある日ついにディーンが人を殺す瞬間を目撃してしまう。
 ディーンは口封じのためにアディソンを重度のアルコール依存症だと世間に思わせ、リハビリ施設に閉じ込める。異変を察した探偵のヘイズはアディソンの救出に向かうが、同じころ、ディーンに騙されたと怒るロシア人のアナトリー率いる一団がメンフィスにやって来ていた。武器を買うために金を払ったのに、肝心のブツを送ってこないディーンに腹を立てていたアナトリーは、直接手を下すために一家の邸宅に押し入っていくが――。

宣伝文につられて

 エース・アトキンスさんがスペンサー・シリーズの後継者のひとりでであることは冒頭でお伝えしたとおりですが、さらに付け加えますと、彼は2012年にクイン・コルソン ・シリーズの『The Ranger 』という作品で エドガー賞 長編賞にノミネートされたこともある実力派です。(ちなみに『The Ranger 』は『帰郷』というタイトルで邦訳されています)

 ですが本書を買ったのはそういう理由からではなく、単純に宣伝文につられたからでした。〝SA・コスビーとドン・ウィンスロウを足して二で割ったような傑作スリラー〟この文を筆頭にズラズラと並ぶ絶賛コメント。これは期待できるかも、と思って購入したわけですが、う~ん、宣伝はちょっといき過ぎだったような。グッドリーズのレビューの中には、〝この宣伝はコスビーとウィンスロウへの侮辱〟なんてコメントも。まあ、気持ちはわかります。

大人の余裕を持って読みましょう

 導入部こそ〝アディソンの夫の正体は?!〟といったスリラーの体をなしていますが、そのあとすぐに視点が切り替わり、アディソンと探偵のヘイズとはまったく接点のない元女優ジョアナの話になります。さらに視点はフランス人のゴルチエ、古物商のレスリーetcへと移っていき、それぞれが置かれている情況が語られていきます。このあたりでわかってきました。本書はストーリーありきの話ではないということに。おそらくアトキンスさんはプロットよりもキャラ造りから入っていくタイプなのではないでしょうか。次から次へと登場するキャラクターは身体的特徴から乗っている車、服装、装飾品のディテールに至るまでそのスタイルがこと細かに設定されています。そして彼らの口から発せられる、旧き良き時代を懐かしむワイズクラック。そう、本書はそのあたりを愉しめばいいのです。ストーリーに関して四の五の言うのは粋ではありません。

 実際、最後まで読んでも未解決の問題が残ったままだったりするのですが、話の流れに目くじらを立てずに読んでいればその辺も特に気になりません。ミステリーの部分にさほど力の入った描写もないので、アトキンスさん自身、読者には各キャラの個別のシチュエーションを愉しんでもらえればいいと思っているのではないでしょうか。

旧き良き時代のカルチャー

 時代設定は2010年とさほど古くはないのですが、メインキャラのひとりの私立探偵ヘイズは六十代の黒人男性。彼の周りの人間も同年代かそれ以上ということで、彼らの会話からは五十年代~六十年代に流行った曲、映画の話題がバンバン出てきます。(読者のなかには、ヘイズは『シャフト』を想起させるとの声も)

 さらにもうひとり、ジョアナという元女優は若いころにエルヴィス・プレスリーと共演したことがあるという設定。なので彼女の口から出る当時の映画や俳優の裏話も本書のスパイスになっています。このジョアナというキャラクターからは、ふとエルモア・レナードの名作『ラブラバ』が思いだされました。

こちらにも昔の銀幕のスターが登場してきますが、現在は落ちぶれて、他人の金にすがってでしか生きられない状況でありながらプライドだけは高いままで、二十歳以上も年下の男をモノにする元女優、という点でもジョアナと似ています。

タイトルについて

 本書のタイトル『Don't let the devil ride』はゴスペル・ソングのタイトルで、元はニール・ロバーソンという司教が作った歌のようです。YouTubeを観るといろんな方々が歌っていますが、なかなかソウルフルです。

 

 

猫のこと、そして書くこと

 またまたレビューとは関係のないことですみません。愛猫が亡くなって三週間が経ちました。まだ三週間……。もっともっと長い時間が経っているような気もするし、通常の時間感覚ではない、別の時間が流れていたような気もします。

 本ブログでも紹介したある女性作家さんは、夫を癌で亡くした後セラピーを兼ねて小説を書きはじめたといいます。セラピストも、書くことをおおいに勧めたそうです。執筆にはある種の癒やしの効果があるのかも知れません。わたしの場合は、このところご無沙汰している友人と話をしたくなって連絡を取ろうとしたのですが、普段連絡を取り合っていないのでメールをしても気づかれない、というかメールチェックもあまりしていないのではないかと思い(それなりの付き合いなので大体のことは予測できる)必ず気づいてもらえるように手紙を書いてみました。そこにわたしのメールアドレスも添えて。

 返事はメールですぐに来ました。案の定、去年パソコンがクラッシュしてメールアドレスが飛んでしまっていたから助かったよ、とのこと。しかもスネイルメール(郵便のこと)にすごく喜んでいました。それで、また折り返しの返事を手紙で書きました。愛猫の死、その猫への想い、どんなに特別な猫だったか……不思議なもので、たしかに書いて吐き出すと心がわずかながら落ち着いていくような気がします。やはり〝書く〟ことになんらかの効能はあるようです。しかしその友人はわたしよりももっと大変なことに直面していました。一度は寛解しかけた癌が、脳梗塞を患ったことをきっかけに再発し、現在は化学療法や放射線治療を受けているというのです。毛髪が抜けるとか、吐き気がひどいとか、そういった症状はないものの、幻覚を見たり記憶がなくなったりといった症状に悩まされているようです。私も猫のロスで深い悲しみに沈んでいますが、それも自分の命に別状がない状態だからできること。彼のように、全力で闘っている人に比べればなんとぬるいものでしょう。かといって悲しみが薄れるわけではありませんが、視野の狭い世界に沈みかけていたところに喝が入ったような気がしました。

 愛猫に対し、あれをしてあげればよかった、あのときもっとこうすればよかった、などといった後悔はありません。自分のなかでは優先順位がいつも決まっていました。いつもあの子が一番でした。仕事中でも甘えてくれば必ず応じました。撫でてあげて、猫吸いして、結局わたしがいつも癒やしをもらっていました。後悔はない。怒りもない。わたしを含め、いずれはみんな死ぬ限りのある命なのですから、怒るのは傲慢だと思います。ただ、ただ、いなくなったことがさみしい。それだけです。

 今はこうして書いてさみしさを吐き出すことしかできません。命あるものは必ず消える……。さみしいですね。

第77回 E.A.アイマール

 先日(9月1日)にアンソニー賞が発表されました。長編賞は安定のショーン・AことSAコスビーさんが受賞。本書はペーパーバック賞にノミネートされていた作品です。

【あらすじ】
 キャンバス地のマスクを被って警棒を手に、女性や子供を虐待する男を私的に罰する謎の私刑人【ヴィジランテ】――人はいつの頃からか彼女を“スリーストライク”と呼ぶようになっていたが、その正体はエミリー・ペーニャという女性だった。
 ある日エミリーの兄で有名ジャズシンガーのマーカスが殺される。表向きは強盗殺人ということだが、実は恋人のレベッカの伯父である、犯罪組織のボス、ヴィクターに殺されたらしい。ヴィクターはマーカスとレベッカの付き合いを快く思っていなかったからだ。エミリーは、ヴィクターの犯行を立証しようとして姉のメリンダに協力を仰ぐ。
 メリンダは気が進まない。以前ソーシャルワーカーをしていて売春婦たちをシェルターに保護したことがあったのだが、マーカスはその売春婦たちに片っ端から手をつけてDVをしていたので、兄を恨んでいたのだ。
 マーカスの恋人だったレベッカは責任を感じ、伯父の犯行を証明しようとするエミリーに協力の意志を見せるが、伯父の手下に誤って射殺されてしまう。愛する姪を失ったヴィクターの怒りはすべてエミリーに向き……

エキセントリックなヒーロー爆誕

 本書の特徴はなんといってもミステリー史上例のないエキセントリックなヒーロー(あえてヒーローとしたい)の誕生でしょう。エミリー・ペーニャ二十八歳。パナマアメリカ人。巷で”スリーストライク”と呼ばれる私刑人【ヴィジランテ】。虐待を受けている女性や子供を救うため、夜な夜な警察無線を傍受して虐待の現場に駆けつける。表の顔は冤罪被害者を支援するNPO団体の職員――と、このように説明すると高潔な人物を想像するかもしれませんが、彼女は決して悪者を華麗に倒す颯爽としたヒーローとして描かれてはいません。そこにあるのは、溜めこんだ怒りを暴力で発散させることでしか生きている実感を感じることができないというあまりにも泥臭い、ある種の歪んだ人間像です。痛快な”必殺仕事人”とは全然ちがいます。

ラテンのノリ?

 著者のアイマールさんはパナマアメリカ人で、本書の登場人物のエミリー、メリンダ、マーカスの兄妹もパナマ人と白人のハーフという設定です。そのせいでしょうか、ストーリーのベースとなっているのは兄妹の軋轢なのですが、じめっとしたドロドロ感は皆無。みんな自分の気持ちに正直といいますか、ラテンのノリなのです。エミリーからしてヴィジランテとして動く前に下調べなど大してしないし慎重さには欠けるし、それで返り討ちに遭うこともしばしば。メリンダに至っては浮気をしつつも隠すことに耐えきれなくなり、恋人にすべてをぶちまけ、それで恋人が怒って離れていくと浮気相手のところに走り、彼に拒絶されるとまた元の恋人を取り戻そうとするなど、ことごとく直情的な行動をして読者をイラつかせてくれます。率直にいってこのノリ、日本人には感情移入しにくいかも。

ズコーッなシーンも

 ドロドロ感がないもうひとつの理由は、ところどころに挟まれるユーモアのせいもあるかもしれません。エミリーがヴィクターから逃げて天井の通気口に隠れるシーン、通気口の格子から下にいるヴィクターたちの様子を伺っていると格子が外れてヴィクターの顔の真上に着地したり。(どっちも一瞬驚いて硬直)また、ヴィクターの恋人のイザベラがエミリーを殺そうとナイフ片手に向かっていったときにけつまずいて自分の腹にナイフを刺して死ぬところは、ズコ~ッとのけぞってしまいました。(笑)

ミステリー色はかなり薄め

 冒頭こそマーカスの死をめぐって謎めいた雰囲気が漂ってはいるものの、段々と、伏線らしきいわくありげなエピソードも大した意味をなさないことがわかってきます。推理しながら読む必要はないタイプでしょう。ただ、プロットの組み立てが緩いからこそ、キャラクターが自由に動いて予測不能な緊張感を生み出しているともいえます。

Netflixで大暴れするのを期待!

 本書は、Netflixによってドラマ化権を取得されています。やはりエミリーのエキセントリックなキャラクターが目を惹いたのでしょう。彼女がNetflixで大暴れするのを楽しみに待ちたいものです。