び~ふぁいる

主に未邦訳の海外ミステリーについて語ります

いよいよあとがきです。何を書けばいいのやら……ではなく、書きたいことが多すぎてまとめるのに苦労しそう。それぐらい考察ポイントの多い作品です。海外では最近ペーパーバックも出て、セールス一位も取ってるけれど、果たして日本人読者にはどうですかね……。冷静に考えて微妙。

第65回 ウイリアム・ハッセイ

 今年最後を締めくくるのは第20回で紹介したサラ・ヒラリーさんも大絶賛している、ゲイの元刑事が主人公のゴシックホラーです。

【あらすじ】
 旅芸人一座出身のスコット・ジェリコは三十一歳の元刑事。十九歳のときに父親が座長を務める一座を飛び出して警察に入ったが、ある事件――極右グループのリーダーのケリガンが、ポーランドからの移民の子供三人を生きながら焼いたという凄惨な事件――で容疑者のケリガンを尋問中、怒りが抑えきれず暴力を働いたために暴行罪で逮捕されて服役していた。出所後は行き場所がなくてまた一座のキャンプに戻り、彼らとともにトレーラーハウス生活をしている。

 そんな折り、歴史学の教授だというキャンベルから三件の殺人事件の調査を依頼される。ひとつ目は、男が首を切られ、代わりにイヌの首が載せられていた事件。ふたつ目は、女性がブリキの浴槽で感電死していた事件。みっつ目は肥満体の女性が絞殺されたあとに自分の肉を口に押し込まれていた事件だった。キャンベルは、この三件には関連性があると主張し、その根拠に、”旅芸人の橋”の伝説を持ち出した。それは百五十年前、ジェリコ一座の芸人五人が老朽化した橋を渡っている最中に橋が崩壊して命を失ったという痛ましい事故のことである。亡くなった五人はフリークショーのメンバーで、そのうちの三人は、イヌのような顔が売り物のドッグフェイス・ボーイと、指先から火花を散らす芸が売り物のエレクトリック・レディと、肥満の巨体が売り物のファット・ウーマンだった。あとのふたりは軟体芸が売り物のオールド・ジェリコと異常に大きい頭が売り物のバルーン・ヘッド。つまりあとふたり殺される可能性があることをキャンベルは危惧していた。
 スコットは刑事時代の上司のギャリス警部の協力を得ながら事件の調査を始めるものの、探れば探るほど偶然というだけでは説明のつかない出来事が起こることに疑問を抱く。時期を同じくして町では、百五十年前の旅芸人の痛ましい事故を偲ぼうという企画のもと、ジェリコ一座の移動遊園地のフェスが開催されようとしている。果たしてこの一連の出来事を背後で操っているのは誰なのか? そしてなんのために?

目くらまし要素が多彩

 とにかく色々と出てきます。地元の図書館の閉館決定に対する抗議運動、モスク建設反対運動、”旅芸人の橋”にまつわる陰謀説、当時の町長を含めた町人五人の寄付によって橋が再建されたこと、町長がその橋のそばに家を建てたこと、その家に、のちに町長の遠い親戚の母子が移り住んだこと、殺人事件を目撃したという老女が、犯人の背中には白い羽根が生えていた、そいつは顔なしだったと証言したこと、等々……。まあ、老女の証言は謎めいているにしても、町長がその橋のそばに家を建てたとか、その家に町長の遠い親戚の母子が移り住んだとか、別に問題なくない? と思ってしまうのですが強引にそれらも謎ということにされていて、謎が乱立するゆえにミステリーの濃度がかえって薄まってしまっている気がしなくもありません。
 そのせいか、本来この手の小説の醍醐味であるはずの、主人公が手がかりを得ながら徐々に核心に迫っていくというゾクゾク感がいまひとつ弱いのです。伏線回収にしても、”あれがそこに繋がるのか、こりゃ一本取られた”と思わず膝を打ってしまうようなところがなかったのが残念。主人公の心理描写の繰りかえしが多すぎたのも、丁寧を通り越して少々くどさが。全体的にもっと焦点を絞ったほうがよかったかなという印象です。

メインはフーダニットよりホワイダニット

 ぶっちゃけちゃいますと犯人はスコットの警官時代のよき上司だったギャリス警部で、当然読者の関心はなぜ彼が? という方向に傾くわけですが、その理由というのが、元々サイコパスだったというのと、刑務所から出所後生きる気力をなくしていたスコットに再び人生の目的を与えるために事件を引きおこしたというものでした。ただ快楽殺人者ではないので、三人を殺すときは苦しませなかったと言っています。う~ん……ミステリー界に、また新たなるヴィラン誕生ということでしょうか。

ややハンニバル・レクター博士風味あり?

 若く、才能のある元刑事を救いたい――その気持ちと歪んだ方法は、拡大解釈をすれば若手捜査官を彼なりの方法でサポートしようとするあのハンニバル・レクター博士に通じるものがなくもありません。しかし、この路線でいくなら少なくとも殺された三人にも殺されても仕方ないという、悪人の側面があってほしかった。そうすることで一応殺しの大義名分も立つし、必要悪というギャリスの立ち位置も明確になったのではと思います。

 実際ラストでギャリスは、子供三人を生きながら焼き殺しながら無罪放免になっているケリガンを捕らえて生死をスコットに委ねます。自分の怒りを抑えられなかったせいでケリガンを無罪にしてしまったことにずっと罪の意識を抱えてきたスコットは、躊躇なくケリガンの死を選びます。つまりここで、ギャリスからの贈り物を受け取ってしまったということなのですね。ギャリスの方法論に異議を唱え、裁きは司法にまかせるべきなどというきれいごとの発想はスコットにはなかったわけです。(こうなると、このふたりの行き着く先は映画『セブン』のようになるのかなあと想像してしまいますね)

 ということで、おそらく今後も元刑事のスコットをこのギャリスがサイコパス的方法論で後方支援していくのではないでしょうか。
 シリーズ続刊の『Jericho's Dead』は、占い師や霊媒師が次々と殺されていくという事件が起き、旅芸人のバックグラウンドを持つスコットが調査に乗り出すというストーリーのようです。
2024年2月刊行予定

Jericho's Dead

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第64回 リズ・ニュージェント

 2023年も終盤にさしかかってまいりましたが、今回は様々な書評サイトで2023年のベストブックに選出されている話題作『Strange Sally Diamond』をお送りします。

【あらすじ】
 二〇一七年。サリー・ダイヤモンドは四十二歳。七歳のときにダイヤモンド夫妻に引きとられ、現在に至る。七歳より前の記憶はなぜかまったくない。養母のジーンはサリーが十八歳のときに病死し、以来サリーは養父のトムと町はずれの家でひっそりと暮らしていた。サリーには自閉症にも似た発達障害があり、人との関わりが苦手だった。外に出るのはスーパーへの買い出しと、養父の年金と自分の障害手当を受け取るために郵便局に行くときだけで、世間は彼女を変わり者と呼んでいた。


 トムは末期の癌を患っていて、よく「死んだらゴミと一緒に燃やしてくれ」と言っていた。ある朝、彼は死んでいた。サリーは言われた通りにトムの死体を裏庭の家庭用焼却炉に入れた。この地域ではゴミをそうやって処分している。そのあといつものように郵便局へ行って障害手当を受け取って帰ろうとすると、局員に、年金を忘れていると言われたので、父はもう死んでいるから必要ないと答えた。さらに、遺体は言いつけ通りに焼却炉に入れたと言って周囲を唖然とさせた。


 この事件は国内外に大きく報道され、サリーの過去についても掘り起こされた。サリーの実の父親は少女を拉致監禁していた小児性愛者で、実の母親は拉致された少女だったというのだ。サリーは五歳の時に母親とともに監禁現場から救出されてPTSDの治療を受けたが、母親のほうは診療中に自殺した。残されたサリーを引き取ったのが、当時親子の担当医だったトムだった。養父が死に、自分の悲惨な過去を知り、それまでの引きこもった生活から踏みださずをえなくなったサリーだったが、その独特な感性で事実と向き合っていく。そんな折、差出人不明の古いテディベアが送られてきた。サリーはそのぬいぐるみの名前がトビーであることだけは覚えていた。これを送ってきたのは実父なのか? いまだに捕まっていない実父のことが頭をよぎり、胸にふつふつと怒りが湧く。

 しかし彼女は知らなかった。実の母は拉致された一年後に男の子を産んでいたことを。ピーターと名づけられたその子は父親とともに逃亡生活を送っていた。数奇な運命にもてあそばれた兄妹に邂逅の日はくるのか。サリーは心の傷を乗り越えて社会に適応していくことができるのか?

この種のテーマの鉄板の笑い

 まず本書の『Strange Sally Diamond』ですが、思わず目を惹かれてしまいます。”ダイヤモンド”とは何ぞや、と。ただの名字で内容とは関係ありませんでしたが、こういうインパクトのある名字を持ってきたことがもう勝利でしょう。ストーリーの前半は自閉症に似た症状を持つサリーが、死んだらゴミと一緒に出してくれという養父の冗談を真に受けて遺体を焼却炉に押しこんだり、近所の集まりの席で恋人は? と訊かれると、自分は生物学的見地から言って異性愛者だがセックスをしたいとはあまり思わない、と答えて周りをドン引きさせたりと、この手のキャラのあるあるで読者を笑わせます。

天然の人気者キャラ

 そんなサリーの変人ぶりを周囲の人々はやがてひとつの個性とみなし、受け入れていきます。彼女の出生にまつわる事件に同情しているからだけではなく、思ったことを忖度なしで口に出すストレートさに惹かれて集まっていくのです。そしてついあれこれと世話を焼きたくなってしまう。サリーにはそうさせる魅力があることがよく伝わってきます。ですが、周囲を取り巻く面々はただ単に温かい人々として薄っぺらに描かれてはいません。ときにサリーの頑固さと衝突し、彼女から距離を置こうとする者もいます。しかしそれも、同じ人間として同位の目線に立っているからこそであり、けっして“健常者からの憐れみの目線”ではないのも読んでいて気持ちがいい。他者とかかわることの大切さ、難しさは誰もが感じることであり、そういった意味で本書は、独特なアプローチながら人間の普遍的なテーマを扱った作品ともいえるでしょう。

大人になってからの人生の選択は自己責任

 一方でサリーの兄のピーターは、少女拉致監禁犯でミソジニーである父親に男の子だからと溺愛され、同時に支配もされ続け、複雑な想いを父親に抱きながら成長していきます。しかし二十歳近くになってその呪縛から解き放たれたあとの選択がサリーとは対照的に描かれています。こちらのパートはスリラーらしくサスペンスフルな流れで展開していきますが、その根底に存在する”人間の業の深さ”には空恐ろしさを感じてしまいます。

大団円ではないエンディング

 ラストはけっして万々歳のハッピーエンドではないものの、未来から差し込む細い光が見えるようなエンディングとなって、読後感は悪くありません。カタルシスを得られるような勧善懲悪ものではありませんが、ご都合主義的な匂いがないのが逆に好感が持てます。各書評サイトに称賛されているのも納得の一冊です。来年の賞レースにも絡んでくるのではないでしょうか!

第63回 スティーブン・J・ゴールズ その3

 今回も引き続きスティーブン・J・ゴールズさんの作品をご紹介します。ゴールズさんは現在日本を舞台にしたミステリーを執筆中とのこと。これまでご紹介したのは詩集と恋愛小説でしたが、彼のデビュー作はノワール物です。ということで、それを読めば彼のミステリー作家としてのスタイルがわかるのではないかと思い、読んでみることにしました。

【あらすじ】
 1949年、LAの小さなギャング団に所属していたユダヤ人のルディは、ある日大金が入った大物マフィアのブリーフケースを奪って家族と共にNYのヘルズキッチンに逃げてきた。ヘルズキッチンは元々ルディと妻のマギーが育った所で、そこを仕切っているユダヤ系ギャングのボスのマイキーは昔ルディの両親によくしてもらったという恩もあり、ルディ一家をかくまってくれた。しかしルディが長女の誕生日をレストランで祝っているときに、LAから追ってきた連中に襲われて長女を射殺される。マイキーはこれ以上ルディを守ってやれないと悟り、一家を南ボストンに逃がす。

 南ボストンにはマイキーの旧友でアイルランド系のギャングのボス、トミーがいた。トミーはルディを新しいメンバーとして快く受け入れるが、トミーのパートナーのブロンディーは不満を露わにする。そんな中、彼らはある警備会社に強盗に入って二百万ドルという大金を奪うことに成功する。しかし、金を分けようという段階になってブロンディーが独り占めしようとしてトミーに向かって銃を撃ち、トミーは死に際に手榴弾を投げつける。爆発で全員が死に、ひとり生き残ったルディは重傷を負いながらも血の海と化した現場から金をかき集めて家族と共にハワイへ逃げる。

 そこでようやく一家は真の安息を手に入れた。そして時は経ち、1967年、ルディは五十八歳になっていた。子供たちは独立し、妻は二年前に他界している。昔負った古傷の痛みに耐えながら、妻が遺したアンティークショップで店番をする日々を過ごしているとき、毎日同じ時刻にやってくる若い日本人の娼婦、ヒナコとカタコトで会話するようになる。そんなある日、店にアジア人のヤクザが押しかけてきて、ヒナコの髪を引っぱって強引に店から連れ出して行った。ひどい扱いをされているのを見かねたルディは警察署に駆け込んで事情を説明するが、サディストの担当警官に半殺しの目に遭わされる。警察にもヤクザの息がかかっていたのだ。

 ルディは痛む身体に鞭打ちながら、ボストンの強盗で手に入れた金がまだ入っているブリーフケースを持ち、拳銃と手榴弾をポケットに入れて売春宿に行く。すると、ちょうどヒナコが例のサディストの警官に酷たらしいことをされている最中だった。ルディの拳銃が火を噴き、警官の脳が飛び散る。ヒナコにブリーフケースを渡して売春宿から逃がすと、ヤクザたちに取り囲まれる。生きてここから出ていけると思うなよ、と息巻くヤクザたち。ルディはふらふらになりながらも、片手でピンをはずした手榴弾を握り、”おれはここに死ににきたんだ”と言い返してにやりと笑う。そしてもう片方の手に持った拳銃の引き金に指をかけた――

インスピレーションは『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ』?

 本書のストーリーは1949年から1967年の間を行き来する構成となっています。冒頭の出来事の舞台はニューヨーク、出てくる人物はユダヤ系のギャング、とくれば映画『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ』を思い出すかたも多いのではないでしょうか。こちらは1920年代、30年代、60年代という三つの時間軸が交錯しながらストーリーが展開し、宝石店強盗や連邦準備銀行の襲撃計画といった出来事が挟まれていることからも、本書がこの映画からインスピレーションを受けたであろうことは想像に難くありません。しかし内容、テーマはまったくの別物となっています。

実際にあった強盗事件 

 作中には主人公のルディがアイルランド系のギャングたちとブリンク・ビルという警備会社を襲撃して大金を奪うシーンがありますが、そのビルは実在し、実際に1950年に武装強盗に襲撃されています。アメリカ史上最大の強盗事件として歴史に刻まれたその事件では八人が終身刑を言い渡され、ふたりが有罪判決を受ける前に死亡しています。盗まれた二百七十万ドル(現在の価値で三千三百八十万ドル)以上のうち、回収されたのは6万ドル未満だとか。この強盗事件はマスコミで大きく報道され、四回映画化されました。

クライマックスは圧巻!

 ストーリーは、ルディたちが警備会社を襲撃したあとの仲間割れから俄然緊張感を帯びていき、ページをめくる手がとまらなくなります。そしてラスト、ほんのカタコトの会話をかわしただけの娼婦を救うためにルディが老体に鞭打ってヤクザの本拠にカチコミに行くシーンは圧巻! 何度読みかえしても心が震えます。
 それだけに序盤から中盤にかけての冗長さが悔やまれるところ。時間軸の交差、多視点による進行も効果的かと言われれば疑問符がつきます。むしろ老兵ルディと娼婦ヒナコの、孤独な魂の惹かれ合いに焦点を絞ってシンプルに構成したほうがクライマックスがより際立ったのではと思います。途中の、ヤクザのユウタロウ視点の話やヒナコがハワイにやって来た経緯ははっきり言って必要性を感じません。ヒナコの傷だらけの身体や悲しげな表情で、辛い過去を背負っていることは充分に伝わってきます。

気になった点

 何よりもいちばん、はて?と思ったのは、すべての元凶である、ルディがLAの大物ギャングから金を奪ったというエピソードが描かれておらず、のちの会話でわずかにそのことに触れられているだけという点です。どういう状況で何が起きてルディはどうやって金を奪って逃走したのかが描かれていないので、金を手にいれたのは彼がギャングとして腕っぷしが強かったからなのか、偶然の成せるわざだったのかもわかりません。描かれるのは、ルディがいかに家族思いの父親か、いかに仲間を信頼する侠気のある男か、といったことばかり。ラストのシーンではヤクザたちに、ジジイだと思ってなめてた、と言わしめるほどの狂気を放ちながら銃をぶっ放すわけですから、そこに繋げるためにも彼の秘めたる暴力性みたいなものを途中で覗かせておいたほうが説得力が出たことでしょう。
 そのあたりをもう少し整理すれば、老兵の復讐、傷ついた娼婦との魂の交流、といったよくあるテーマもゴールズさん独自のアプローチで、まさに”古い革袋に新しい葡萄酒を入れた”作品として、ハリウッドで映画化されてもおかしくないレベルに仕上がったと思います。
 さて、ゴールズさんの新作では日本を舞台にどんなストーリーが繰り広げられるのでしょうか。上梓が楽しみです

 

 

第62回 スティーヴン・J・ゴールズ その2

 第55回に引き続き、スティーヴン・J・ゴールズさんの作品をご紹介します。前回は詩集でしたが、本書はその世界観をそのまま小説にしたような、異色の恋愛作品となっています。

【あらすじ】
 ヴィンセントとアメリーは互いを肉体的、精神的に求めつつも、思い通りにならない相手を自分勝手だと罵ってはくっついたり離れたりを繰り返していた。しかし予定外のアメリーの妊娠、堕胎をきっかけにふたりの仲は修復できないところまで崩壊し、アメリーは崖から飛び降りて自殺する。彼女を失ったことに耐えきれずヴィンセントも自殺を図るが、一命を取りとめて精神医療施設に収容される。施設の中でヴィンセントは治療を受けることを拒否し、毎日ただひたすら過去に閉じこもっていた。過去を変えられればアメリーを救うことができると信じて。

 そんな中、同じ施設の収容者のベアトリスに好意を寄せられて彼女を受けいれてしまう。しかしヴィンセントの中でベアトリスの姿はアメリーと重なっていた。そのことに気がついたベアトリスはヴィンセントを責め、目を覚ませと叱咤する。しかし目を覚ましたくないヴィンセントは、その後ベアトリスから渡された謝罪の手紙を一切拒否して再び自分の殻に閉じこもる。それに責任を感じたベアトリスは命を絶つ。ヴィンセントはまた新たな罪を背負い、過去へ戻ろうとする。今度はベアトリスを救うために――。

オートフィクション(Auto fiction)?

 ストーリーは、主人公ヴィンセントの現在の施設での生活と過去の出来事が交差しながら進み、ヴィンセントとアメリーの間に何が起きたのかが次第に明らかにされていきます。ほんのりミステリー仕立てにもなっていて、ちょっとしたひねりもあり、ラストのほうでその真相も明かされます。ゴールズさんについて詳しいことは存じあげませんが、前作の詩集『Half-Empty Doorways and Other Injuries』と共通した世界観であるところを見るかぎり、ヴィンセントとアメリーの関係は作者の実体験が基になっているのは想像に難くありません。本書はおそらく自伝的側面を持つオートフィクション、すなわちリアリズム文学の変化系私小説、ともとれる作品なのではないでしょうか。

自己再生の旅(The quest for self-renewal)

 頑なに過去に閉じこもり、現実を見ようとしないヴィンセントの姿は一見後ろ向きのように見えますがその実、過去を変えてアメリーを救いたいという思いはそのまま過去の自分を見つめ直し、自分を変えたいという気持ちを反映しているようにも見えます。私の目には、自己の内省と再生の過程を描いた物語とも映りました。救いようのないエンディングの割にさほど殷々鬱々とした後味が残らない理由もその辺にあるのかもしれません。

よくも悪くもブレない男ヴィンセント(Vincent, kind of a  man of consistency)

 主人公のヴィンセントは、時を戻して恋人のアメリーを救いたいという一心で過去を辿り、ついにアメリーが命を絶つターニングポイントとなる大喧嘩のシーンに行きつきます。今度こそ悔いのないようにヴィンセントはどんな対応をするのだろうと思って読んでいくと、変わってねェ! 前と同じく安定の鬼畜ぶりでアメリーを罵り、部屋から追いだします。じゃあ過去を変えてアメリーを救おうというのは何だったの? という疑問は残りますが、ヴィンセントとはこういう人間、つまり変われない人間、ということなのですね……。

異色作であり、普遍性もあり 

 本書は確かにダークな雰囲気に包まれた異色作ではありますが、ここで描かれているのはよくあるカップルの話です。付き合ってはいたいけれど結婚はまだ考えられない男と、結婚して子供がほしい女。男は女をつなぎ止めておきたいがために、真剣に付き合っているとは言っているが、いざ女が妊娠すると、堕ろしてくれという。女はささいなことで不安を感じ、男の浮気を疑い、自傷行為をしては男に責任を感じさせてつなぎとめようとする。こういった話は現実にも腐るほどあるでしょう。

 ただヴィンセントが一方的に悪者にされ、自分でも自分を責めて自分を”クソ男”(piece of shit)呼ばわりするのはちょっと酷かなあと。何せアメリーという女はヴィンセントを欺して妊娠したり、彼の家に泊まっているときにシャワールームから自撮りのヌード写真を別の男に送ったり、浮気がばれるとレイプされたと言い訳したり、自傷行為をして同情を引こうとしたりと、ヴィンセントを振り回し放題。しかもこれら全部、ヴィンセントがそうさせたのだという理屈で彼を責め、ヴィンセントが反論すると「ひどい、なんて冷たい人なの」と被害者面。ヴィンセントが自責の念に堪えきれなくなって爆発すると、また他の男に走り、さみしかったから、つらかったから慰めがほしかった、そうさせたのはあなたよ、とヴィンセントを責めるという繰りかえし。しかし、ついにアメリーのほうがこの関係を終わらせて前へ進もうとすると、今度はヴィンセントが彼女にすがりついて別れを拒否するという、恋愛の共依存の典型的パターンの展開を迎えます。

 ここまでではないにせよ、これに近い恋愛の経験は多かれ少なかれ誰にでもあるのではないでしょうか。そう言った意味では底流に普遍性が潜んでいる作品と言えるかもしれません。全163ページとページ数も少なめなので、興味を持たれた方は是非読んでみてはいかがでしょうか。

第61回 ラッセル・W・ジョンソン

 今回はラッセル・W・ジョンソンさんの『The Moonshine Messiah』(2023年刊)をご紹介します。

【あらすじ】

 ウエストヴァージニア州ジャスパークリーク郡の保安官、メアリー・ベス・ケインは八年前に夫を亡くしたシングルマザー。夫も保安官で、彼が亡きあと保安官選挙に立候補し、町民の支持を受けて当選して現在に至っている。
 そんな彼女の元へワシントンDCから、高校時代の恋人でもあり今は連邦検事補のパトリックが訪ねてきた。彼は、法務省がメアリー・ベスを起訴しようとしていることを告げる。実はメアリー・ベスの母親マミーは麻薬密売組織の親玉で、以前からメアリー・ベスとの癒着が噂されていた。それに加えてメアリー・ベスの手荒いやり方――容疑者への暴力、人権侵害なども問題視されているという。しかし、彼女が弟のソイヤーを逮捕すればすべての罪を帳消しにしてやる、とパトリックは持ちかけた。
 メアリー・ベスの弟のソイヤーは民兵組織を立ち上げて閉山した炭鉱を本拠にし、政治批判の演説をラジオから流して支持者を増やすという反政府活動を行っている。FBIはこの動きを”第二のウェーコ”になるのではないかと警戒していたのだった。
 もし自分が有罪を宣告されて刑務所行きとなったら息子の成長は見られなくなってしまう。メアリー・ベスは心を決めて弟のソイヤーところへ行くが、時すでに遅く、弟たちは郡庁舎を襲撃。FBIはソイヤーの本拠地を包囲するが、ソイヤー側のスナイパーが放った一発がFBIチームのリーダーに当たって即死。先制攻撃の優勢に歓喜するソイヤーだったが、ドローンなどの最新機器を持つFBIはあっという間に民兵を制圧。危機を感じたソイヤーはメアリー・ベスを連れて炭鉱の中に入り、途中でメアリー・ベスを殴って気絶させて逃げていった。事情を知らないFBIやパトリックは、炭鉱から出てきたメアリー・ベスを、弟の逃亡を幇助したとみて逮捕する。窮地に陥るメアリー・ベス。しかも彼女はまだ知らなかった。欲深い母親マミーが別の形でこの件に一枚噛んでいることを……。

”第二のウェーコ”とは?

 作中に出てくるウェーコ。勿論皆さまご存じだとは思いますが、一応おさらいしておきましょう。1993年2月28日、テキサス州ウェーコ市から13マイル離れたマウント・カルメル・センターを本拠とするカルト教団〈ブランチ・ダビディアン〉がテキサス州法執行機関とFBIと軍によって包囲され、4月19日までに制圧されたという事件のことを指しています。最終的にFBIは催涙ガス攻撃を開始し、その直後にマウント・カルメル・センターは炎に飲み込まれ、子供25人、妊婦2人、教祖のデビッド・コレシュ当人を含むブランチ・ダビディアン信者76人が死亡する結果となりました。

 当時教祖のコレシュは『罪深きメシア(The Sinful Messiah)』とメディアに名づけられていましたが、本書の『Moonshine Messiah』もそれをもじっているのでしょう。ちなみにMoonshineとは密造酒という意味で、作中にも郡内で密造されているというイチゴ酒やブルーベリー酒が出てきます。

民兵(ミリシャ)の歴史

 本書には、主人公メアリー・ベスの弟のソイヤーが反テクノロジー――ドローンやロボットが人間の職を奪う――とかその他の陰謀論まがいのことを唱えて支持者を増やし、郡庁舎を襲撃しようと呼びかけると州内外から武装したバイク集団が集まってくるという描写がありますが、アメリカでは実際にそのようなことが起こっています。この、民間人によって独自に組織された民兵集団の存在は1990年代前半から顕著になってきて、現時点でその数は200~300グループに上るともいわれているようです。民兵とはいわば典型的な自衛団的軍事組織。自分たちは専制的な連邦政府に対する最後の防衛線であり、みずからを政府の弾圧に抗する自由の戦士とみなしています。
 また、憲法修正第2条には、「武器保有権」が規定され、「規律ある民兵団は自由な国家の安全にとって必要であるから、国民が武器を保有し携帯する権利は侵してはならない」と書かれています。アメリカには、国家の支配を黙って受け入れない、己の自由を侵害するものには相手が誰であっても闘うという姿勢が今も根強く残っているのです。

 と、ざっとストーリーの背景を説明したところで、肝心の中味の感想にまいりましょう。

身内のドタバタ劇

 本書は、集結する武装イカーたちを見て不穏な空気を感じた保安官のメアリー・ベスがほぼ職権乱用とも取れるかたちでバイカーのひとりを捕らえて職務質問するシーンから始まります。なるほど、何やらまずいことが起こりそうな予感。そこへ、家庭内暴力の通報が。それはメアリー・ベスの叔父のジミーが娘を殴っているというもの。駆けつけるとジミーはライフルを持って玄関に仁王立ちしてメアリーらを寄せつけようとはしません。しかし叔父が酒好きなのを知っているメアリー・ベスは持ってきた密造酒で叔父を懐柔します。そのあとは連邦検事補のパトリックがやって来ますが、彼はメアリー・ベスの元恋人。さらに弟のソイヤーは陰謀論まがいの演説で民兵を扇動してFBIに目をつけられている人物で、母親のマミーは地元の犯罪組織の親玉。マミーの用心棒はメアリー・ベスの従弟……と、出てくる人物も起こる出来事もすべて身内絡み。ラストは弟のソイヤーをメアリー・ベスの息子のサムが射殺(正当防衛ですが)するというオチ。終始身内でドタバタしていたなという印象が強く、事件の謎とき風味は薄め。保安官が事件を解決するというミステリーを期待していたら、よくも悪くも裏切られるでしょう。

ストーリー展開にやや難あり

 少し気になったのは、複雑な話ではないのに頭にすっと入ってきにくい点です。それは、説明を会話に被せる場面が多いからかもしれません。伏線の回収も基本会話なのでやたらと長ゼリフになるし、誰々がああしたから誰々がこうした、と言われると、ええっと、それって誰だったっけ、となり、それが名前だけしか出てこないキャラクターだったりするとますますもって思いだすまでに時間がかかったり。この辺をもう少しすっきりさせて、ミステリー色をしっかり出してほしかったところです。ちょっと身内のことにページを割きすぎて、全体にミステリーとしての構成が甘かったかなと。

家族間のダイナミズム

 もっとも、それだけ身内にフォーカスされている話だけあって、家族間のダイナミズムはよく描かれています。絶対的な存在として娘と息子を支配してきた母親のマミー。彼女の愛情を得るために競わされてきたメアリー・ベスとソイヤーの姉弟。しかし最後の母娘対決でメアリー・ベスはついに母親の呪縛から逃れて前へ一歩踏み出すという、ひとまわり成長した姿が描かれています。その他のキャラクターの造形もよく、特にメアリー・ベスと幼なじみの保安官補イジーとのコンビはユーモアたっぷり。アメリカのドラマ、映画、音楽の固有名詞もポンポン飛び出してきて、そのあたりは楽しく読めました。

 南部を舞台にし、白人側の視点でこれほど南部らしさをにじみ出させた作品は類を見ないのではないでしょうか。アメリカの、他の州とはちがう南部独特のカルチャーを知るにはもってこいの一冊だと思います!

 

 

第60回 キャサリン・チッジー

 今回は2023年7月に刊行された、ニュージーランド発のサイコサスペンス『Pet』をご紹介します。

【あらすじ】
 1984年。十二歳の少女ジャスティンは古物商を営む父親とふたり暮らし。数ヶ月前に母親ががんで他界して以来、家事全般を請け負う毎日を送っている。そんなとき、通っている学校に若き新任教師が赴任してきた。ミス・プライス。ブロンドの髪をなびかせ、映画でしか見たことのないような白いスポーツカーでやってきた美しき女教師に町全体がとりこになる。
 ジャスティンのクラスの担任となったミス・プライスは、ペット【お気に入りの生徒】を選んで彼らに黒板消しや教材の片付けといった用事を頼んでいた。選ばれるのはスクールカーストのトップにいる美人の子やハンサムな子ばかり。ジャスティンと親友のエイミーは、自分たちとは無縁の世界にいる彼らを羨みつつも、ふたりで楽しく学校生活を送っていた。しかしある日、ジャスティンがミス・プライスに用事を頼まれるようになってからふたりの関係はぎくしゃくし始める。エイミーの、嫉妬からくる冷たい言葉に傷ついたジャスティンは次第に彼女から離れ、クラスのカースト上位の子たちに誘われるがままに彼らと行動を共にするようになる。
 折しもクラスでは盗難が発生し、みんなの持ち物が何かかしらなくなっていた。ジャスティンは、母の形見のペンをなくしていた。唯一被害を受けていないエイミーはクラスじゅうから犯人扱いされ、かつては親友だったはずのジャスティンまでも犯人はエイミーだと思うようになる……
 ニュージーランドの田舎町を舞台に、無垢なゆえの残酷さを持つ思春期前の子供たちと、人を操ることにかけては天才的な才能を持つ女教師が織りなす異色作。

サイコサスペンス? 一般小説?

 本書の紹介文にはサイコサスペンスとあり、書評サイトのレビューも悪くなかったので買ってみましたが、序盤こそクラスの授業で牛の目玉を解剖するというおどろおどろした雰囲気が醸しだされるものの、その後話は主人公ジャスティンの日常に移り、しばらくサスペンス的なことはなかなか起こりません。中国人移民である親友のエイミーやクラスメートとの関係、両親についての話、教会の神父による1973年にチリで起きた軍事クーデターの講話などが続くだけで、特に読者をハッとさせるエピソードもないので非常に冗長に感じられるのですが、それも本書をサイコサスペンスと期待して読んでいるからであって、最初から一般小説として読んでいたらこのような不満は感じなかったでしょう。
 確かに読了後に振り返れば、この長々としたパートにもクライマックスに繋がる伏線が含まれていたとわかるのですが、その伏線が遠まわりすぎて、ダイレクトにピン!ときにくいのです。このあたり、どうにもメリハリに欠けているように思えてなりません。終盤のほうにはもはや伏線でもない出来事が挟まれます。クラスメートのドミニクにはきょうだいがたくさんいます。いわゆる大家族の子で、両親は中絶反対を唱える敬虔なクリスチャン。この家族が婦人科クリニックの前で激しいデモを行い、そこにジャスティンも参加するというエピソードがあるのですが、これはどこにも繋がりません。女性問題は社会的テーマとして重要だというのはわかりますが、プロットに絡むようもうひと工夫ほしかったところです。読者としては何で? という唐突感が否めません。

主人公ジャスティンの人物像の曖昧さ

 本書において最大の残念なところは、主人公に共感できないという点でしょう。それは彼女がいやな人間だからではありません。むしろいやな人間としてストレートに書いてくれたほうがかえって共感を呼んだかもしれません。とにかくジャスティンの描き方が中途半端に感じられてしまうのです。例えばクラスのみんなの同調圧力に屈してエイミーを自殺に追いやってしまったことに良心の呵責を感じるシーンがあまりなかったり、それどころかむしろエイミーが盗難の犯人だと思って疑っていなかったり――つまり親友を信じていなかったのですね。しかしエイミー亡きあと今度は自分が犯人扱いされると、ようやくエイミーが死ぬ前に言っていた、”ミス・プライスが怪しい”という言葉を信じるようになります。そして親友の汚名をそそぐためにミス・プライスがエイミーの死に関わっている証拠を集めようとしますが、それもエイミーへの償いというより自己保身のためにも見えたり……。母親が死んでからまだ数ヶ月という段階でさみしい気持ちがありつつミス・プライスが父親と結婚するとなると虚栄心からクラスのみんなに自慢して喜びに浸ったりと、この年頃の女の子は不安定だから、といってしまえばそれまでですが、それにしても揺れすぎてどこに共感ポイントを持っていけばいいのかわかりませんでした。

ラストでいきなりスプラッター

 クライマックスでは、ミス・プライスが口封じのためにジャスティンを殺そうとします。必死で抵抗するジャスティン。しかし首を絞めるミス・プライスの力に抗えず……という状況でポケットからペンを取りだしてミス・プライスの片目にピンポイントでグサリ。でもってミス・プライスは即死。コワい、コワいよ十二歳。まあ、目を狙ったというのも序盤の牛の目の解剖のエピソードに繋げようとしたのでしょうが、遠すぎていまひとつまとまり感には寄与せず、血みどろのスプラッターシーンだけが印象に残ったクライマックスとなりました。

 最終的な感想としては、すべてが中途半端だったかなあと。ジャスティンのキャラクターも話作りも。もっとサスペンスに寄せるか、あるいは思春期を迎える女の子の成長物語として文学作品寄りにするか、どちらかにしてそのムードを極めたほうがよかったように思います。いずれにしても、サイコサスペンスというジャンルは私にとって鬼門だと再確認した作品でした。