び~ふぁいる

主に未邦訳の海外ミステリーについて語ります

第46回 アンナ・マッツオーラ

 今回は、2023年度のCWAゴールドダガー賞とヒストリカル賞の最終候補に残った『The Clockwork girl』を取りあげてみたいと思います。

【あらすじ】
 1750年、パリ。宮殿で華やかな生活をおくる貴族たちとは裏腹に、庶民は貧困にあえいでいた。二十三歳のマドレーヌは母親が経営する売春宿で十二歳から客の相手をさせられている。片頰に無残な傷があるが、それは客から火かき棒を押しつけられた跡だ。妹のスゼットは客の子供を身ごもり、数ヶ月前に出産時に死亡。残された八歳の息子のエミールの面倒はマドレーヌが見ている。

 ある日、その売春宿を守るかわりに好き勝手に出入りしている警察官のカミーユがマドレーヌに仕事を申しつけた。まるで生きているような動きをする時計仕掛けの動物を作っていると評判のラインハルトの家にメイドとして入り込み、怪しげなことをしていないか探れというのだ。折しも巷では少年少女の誘拐が横行していて、妙な噂がたっていた。ひょっとしてラインハルトが工房で恐ろしい人体実験を行っているのではあるまいかと警察は疑っているらしい。
報酬を貰えたら売春をやめて甥のエミールと新生活が送れる、そう思ってマドレーヌはその仕事を引き受け、ラインハルトの家へ。そこにはラインハルトの十七歳の娘ヴェロニクもいた。そうしてマドレーヌのスパイ活動が始まったが、彼女は知らなかった。その裏にはヴェルサイユで権力を振るうある人物の思惑が絡んでいることを……。

1750年はベルばら時代?

 フランスの歴史にはまったく疎いワタクシ、このころはベルばらと同時代では? などとうそぶきつつウィキペディアを覗いてみると、違いました。本書はルイ15世が統治している時代。ベルばらは一世代後のルイ16世の話でした。作中には、時計職人のラインハルトがその腕を認められてベルサイユ宮殿に招待され、それにマドレーヌも同行するシーンがありますが、”宮殿は臭い”と度々語られています。そう、ベルサイユ宮殿にトイレがなかったのは有名な話で、貴族たちはおまるで用を足し、召使いがその糞尿を宮殿の周りの立派な庭園に捨てていたので庭師がたいそう怒っていたとか。
 当然庶民の家にもトイレはなく、おまるに溜まった糞尿を窓から捨てていたというのだから驚きです。ハイヒールのブーツが生まれたのは、道に落ちている糞をなるべく踏まないようにするためだったそうです。

実際にあった誘拐事件

 本書の中では、ストリートから次々と幼い子供が消えていくという事件が起きます。それに伴って様々な噂が立っていました。労働力として植民地に連れていかれたのではないか。あるいは王の妾のポンパドール侯爵夫人が若さを保つために子供たちの血を入れた風呂に入っているのではないか……等々。この件については実際にあった事件を基にしていると著者のマッツオーラさんは巻末で述べています。
 調べてみると、1750年にパリで子供の集団誘拐事件が起きたのですが警察はまともに捜査をしなかったので、王が癩病を患って子供たちからとった血の風呂に入っているのではないかという噂が流れて民衆が騒ぎだし、暴動が起こったとされています。この出来事が、のちの1789年のフランス革命へと発展していくきっかけのひとつになったのだとか。

実在の人物も主要キャラとして登場

 ストーリーはマドレーヌ、ラインハルトの娘のヴェロニク、それにルイ15世の公妾であるポンパドール侯爵夫人ことジャンヌ=アントワネット・ポワソンという三人の女性の視点で語られていきます。このポンパドール侯爵夫人はみなさんご存じの通り実在の人物で、公妾という立場を利用してフランスの政治に強く干渉し、やがて政治に関心の薄いルイ15世に代わって権勢を振るった女性です。彼女の手足となって動くのが、これまた実在の人物であるニコラ・ルネ・ベリエです。彼はポンパドール侯爵夫人から警察のトップの地位を与えられ、夫人の敵を失脚させるために暗躍します。その敵のひとりがリシュリュー公爵という、ルイ15世から内廷侍従長として重用されている人物ですが、作中ではポンパドール侯爵夫人がルイ15世に、リシュリュー公爵を切るようけしかけます。この辺の権力争いも読みどころのひとつでしょう。

歴史ミステリーとしての評価は?

 はっきり言って分かれるのではないでしょうか。その理由としてはふたつ挙げられます。第一に、描写が丁寧なのはいいのですがとにかく地の文の量が多く、その内容に起伏がないため話の進行が遅く感じられることです。(実際Goodreadsのレビューには途中で脱落したという声もちらほら)ただ文章が難解ではないというのは救いでした。
 第二に、”背筋が凍るゴシックホラー”とか”歴史ノワール”といった惹句が内容と乖離しているように見受けられた点です。誘拐犯についても消去法でおおよその予測がつき、犯人に気づいたマドレーヌに降りかかる危機もほんの一瞬でタイミングよく助けが来るという展開。サスペンスやゴシック感を期待していた読者はやや物足りなさを感じるかもしれません。

 逆によかったのは、マドレーヌのパートではラストで売春を強いた母親に対して決別宣言をし、とりあえずある程度のカタルシスをもたらしてくれたところでしょうか。また、ヴェロニクの視点からは、女性だからと父の仕事を継がせてもらえないことに反発して勉強を続けるという自立心が描かれていたり、ポンパドール侯爵夫人のパートではルイ15世の寵愛を失うまいとする彼女の必死さや宮廷内の権力闘争が見え隠れするなど、三者三様の女性像が興味深く表現されていた点でしょう。

 なお、マッツオーラさんはこれまでに長編の歴史ミステリーを二作書いていらっしゃいます。本作が三作目となり、最新作となる四作目の『The House of Whispers』は2023年4月に刊行されています。こちらは、ファシズム吹き荒れる1938年のローマを舞台としたポルターガイストの話ということですが、ぞくぞくするような不気味さと当時のファシズムの気運や戦争をめぐる政治についての描写が融合しているか否かについてやはりレビューが分かれているようです。